1905年10月10日に、長崎県長崎市に生まれる。旧制長崎県立長崎中学校を経て、30年、慶應義塾大学文学部フランス文学科卒業。在学中から獅子文六や岸田国士の「新劇研究所」に所属し、32年には岸田主催の「劇作(第1次)」の創刊に、編集長的な役割として参加。翌33年に処女戯曲『おふくろ』を発表し、築地座で上演された。37年には、文学座の創設に参加するが、44年に退団して広島県に疎開、戦時中は筆を絶った。終戦後、51年に千田是也に請われて俳優座演出部員になり、のちに俳優座養成所の後身となる桐朋学園短期大学演劇科で教鞭をとった。「マリアの首」は、59年に田中が俳優座養成所の卒業公演のために書き下ろした戯曲である。本作で、田中は岸田演劇賞と芸術選奨文部大臣賞を受賞。劇作家でもある三島由紀夫は、かつて田中のことを「岸田国士氏の仕事の、本当の意味での継承者」と評した。岸田國士戯曲賞の選考委員を、第五回から第11回(59〜65)まで務めた。95年没。墓所は、カトリック府中墓地にあり、郷里の浦上天主堂前には、妻で同じく劇作家であった田中澄江によって碑文が建立された。
受賞歴
1955年(昭和30年) —第6回読売文学賞「教育」
1959年(昭和34年) —第6回岸田演劇賞「マリアの首」
1960年(昭和35年) —第10回芸術選奨文部大臣賞「マリアの首」「千鳥」
1978年(昭和53年) —第32回毎日出版文化賞「劇的文体論序説」
1980年(昭和55年) —日本芸術院賞・恩恵賞
1982年(昭和57年) —勲三等瑞宝章
1959年に発表された、四幕九場からなる戯曲。同年2月、田中自身の演出により、俳優座養成所の卒業生で結成された「劇団新人会」が初演。田中の故郷・長崎を舞台に、原爆投下後の浦上天主堂に残された焼けただれたマリア像の首を、雪の降る日に人知れず運び出そうとするカトリック信者たちのドラマ。原爆症の夫を抱え、過去に自分を犯して短刀を預けて去った男への復讐を抱き、街角で自作の詩集を売る忍。昼は病院の看護婦、夜は娼婦として街角に立つケロイドの顔をもつ鹿。いまはやくざな生活を送り、忍と対面し、過去に犯した女と知りつつ死ぬ、被爆者の次五郎。ほかにもさまざまな人間が登場し、現実と幻想、散文と詩が自在に交錯するなかで、人間の原罪と神、戦争と平和、自由への欲求など、哲学的諸問題を深い人間愛から問いただそうとする作者代表作の一つである。
田中は、この戯曲を執筆した動機について、公演パンフレットの寄稿に、以下のように書き残している。
「被爆の事実も、また被爆という大きな犠牲の意味も忘れられつつあるとき、私になにができるであろう。せめて幻の中でなら、私を産み育ててくれた長崎が戦さの業火で打ちのめされたあと、乾ききらぬ血を共に拭い、切ない息を共に吸うこともできないことはないだろう。またそこには、間接的に戦争に協力したことの贖罪の意識があったような気もする。私のような戦前派の者は、いつも何かしら後めたさのようなものを背負っているので、取り立てて言うほどではないかもしれないが、念のために附け加えておきたい。」
参考・引用:昭和48年度芸術祭参加 俳優座公演NO.118「マリアの首」公演パンフレット/田中千禾夫戯曲全集(解題:石澤秀二)
戯曲「マリアの首 ─幻に長崎を想う曲─」は、田中千禾夫が創造したフィクションであるが、ここに記した事実が創作の源泉となっている。
これは、実際の浦上天主堂と、「被爆マリア」について、そして原爆の脅威を物語る一枚の写真についての記録である。
長崎市北部に位置する浦上地区は、戦国時代末期までイエズス会領になっていたため、カトリック信者が多く暮らした。しかし、江戸幕府のキリシタン禁教令により、信者たちは「浦上崩れ」と呼ばれる激しい弾圧を四度にわたり受けることとなる。明治政府がキリスト教の信仰の自由を認めると、1914年に信徒たちは激しい弾圧を乗り越えたこの地に天主堂を築いた。石と煉瓦造りのロマネスク式大聖堂には、高さ25メートルの鐘楼が備えられ「東洋一の大聖堂」と謳われるほどであったという。
しかし、1945年の原爆投下により、爆心地からわずか500メートルの位置にあった浦上天主堂も崩壊した。その残骸はしばらく放置されていたが、長崎市がアメリカのセントポール市と日本初の姉妹都市提携をすることになり、日米国交の妨げになるという理由から、「原爆の悲惨さを物語る遺構として残すべき」という反対意見を退けて、1958年に取り壊しとなった。
一方、広島の原爆ドーム(原爆投下前は、広島県産業奨励館)は、1966年の広島市議会で原爆遺構として永久保存が決定し、被爆から51年後の1996年には、人類の負の歴史を刻む「世界遺産」としてユネスコに登録された。
長崎では、爆心地付近の惨状をありのままの姿で後世に伝えられる遺物を残せなかったことを、「幻の世界遺産」として、いまも悔やむ声が根強い。
ただし、被爆当時、天主堂から30メートルの距離に吹き飛ばされた鐘楼の残骸は、旧天主堂の唯一の遺構としていまも保存されている。
浦上天主堂を題材とした映画:
大庭秀雄監督『長崎の鐘』(50)著書:永井隆
1929年に浦上天主堂の祭壇に装飾された、木製の聖母マリア像は、スペイン人画家・ムリーリョが描いた『無原罪の御宿り』を基に作られた。原爆投下により天主堂とともに被爆したが、浦上出身の野口嘉右衛門神父(厳律シトー会)が瓦礫の中から発見したマリア像の頭部を、北海道の修道院に持ち帰った。のちに、トラピスト修道院、純心女子短期大学(現:長崎純心大学)を経て、1990年に再建された浦上天主堂に返還された。平和を願う象徴として、ベラルーシ共和国、ローマ、ゲルニカ(スペイン)、ニューヨークの国連本部などを巡礼し、1985年と2010年の二度にわたりバチカンを訪れ、ローマ教皇ベネディクト16世から祝福を受けている。
「被爆マリア像」浦上天主堂 提供
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追悼平和祈念館では、原子爆弾による被害の実相を広く国の内外に伝え、永く後代まで語り継ぐために、様々な事業に取り組んでいます。被爆76年が経過し、「被爆者が語れなくなる時代」が近づくにつれて、被爆の実相を伝えることが年々難しくなっています。そのような中で制作された映画「祈り」は、原爆の惨禍を映像として、その後も苦しみ続けた被爆者の無念さや想いを伝えています。「長崎を最後の被爆地に!」するため、「原子雲の下で何が起こったか」を知ってください。ナガサキを知ることは、自分たちの未来を考えることです。
戦争、そして原爆は、物や肉体ばかりでなく、多くの人の“心”を深く傷つけました。この、長崎原爆を描いた異色の映画の登場人物たちはみな、心に大きな傷を持ちながらも、自らの信仰に生き、神に祈りつつ人事を尽くしながら、時代を懸命に生きています。
昨秋、試写会で本編を観賞したときに覚えた震えは、川棚での晩冬のロケを想起したからではありません。決して繰り返すことがあってはいけない時代。そのためにも、我々ひとりひとりができることを、実践するときが今、来ています。
「祈り」、それは行動です。
戦争の影をひきずった物語が語られることは少なくなった。「祈り─幻に長崎を想う刻─」になにかなつかしさを感じたのはそのせいだろうか。
戦争の影を背負い、戦後の復興からも取り残された人々──、信仰に生きる被爆者や、娼婦、やくざといった市井の人々が、この映画ではともにぐつぐつと煮えたぎってもがいている。
かれらは復興と繁栄にまっすぐに走りだすことを、どこかでためらっているようにも感じる。廃墟を撤去してしまったらなにかを失ってしまうのではないか。
戦後を生きるとは、そのような「ためらい」を生きることだったのかもしれない。 「祈り─幻に長崎を想う刻─」は私たちが見失った戦後をあらためて問いかけてくる。
映画の舞台となる昭和32年は国の被爆者援護が始まった年です。
まちの形は復興を遂げたかのように見えますが、多くの被爆者は心と体に深い傷を負い、貧困や差別に苦しんでいたことを、改めて痛感しました。
この映画を通して当時の人々の心情に触れ、被爆の実相をより深く知ってもらうきっかけになれば、と思います。